味覚の前借り

無知の知 of ムチムチ 普段公にしないオ○ニー記事

ゼミが決まった12月に、思い立ってFacebookに載せた文章

ゼミが決まった件についての人生一番の真面目な投稿

今日、ゼミの第一志望が通ったかどうかの掲示があって無事自分は入りたいゼミに所属できることになりました。今までの大学の授業形態と違ってひたすらに専門性のある少数人数の授業なので楽しみです。自分が所属するのは、建前的にはアメリカの政治経済に関連するものです。建前的には、と言ったのはそのゼミの形式が特殊だからです。というのも、毎週毎週学生が討論したい社会問題などを持ってきて、プレゼン、自分の見解、批判の提言、などなど議論を重ねていきます。そのゼミの中では教授は一切関与せず成績の評価まで学生自身でやるそうです。
その教授は専門はアメリ近現代史です。近現代史といってもアメリカにとってはそれが全てですが。教授のスタンスとしては「世の中の全てのことに疑ってかかれ」といったものです。例えば民主主義という概念に関して。今現在では民主主義は先進国では当たり前の政治形態であって、それを外す国はよろしくないとまで評価されます。今でも左翼な団体は安倍政権を一党独裁で国民の意見が反映されてない、要するに民主主義から逸脱してるという評価を上記の定説からします。しかし、そもそも民主主義とは人類史の中で見るとその概念が広まってきたのはここ200年くらいの話であります。民主主義という概念に反対意見を述べるならば、少数派の意見までの考慮が必要なので効率よく進まない、民意がそのまま反映されるので国民の政治観念を支配出来れば半独裁のような政治になってしまう、などが挙げられると思います。そもそもポリビオスの考えからいけばどれが一番なんて決められない可能性もなきにしもあらず。
少し話が逸れましたが「定説を疑ってかかる」というのがポリシーらしいです。そこに興味を抱いてこのゼミを選びました。僕が最近少し疑問、というより考えているのは歴史を学ぶ意味についてです。学問というのは簡単にまとめると具体と抽象の世界を行ったり来たりする概念のことです。例えば物理学であったら様々な実験データ(具体例)から、F=maといったような公式(抽象化)を導いて、それを様々な物理現象に当てはめていくわけです。経済学も同様に、具体的な金銭のやり取りからそれを関数化(一般化)していって、それを商業に応用していく。しかし、歴史という学問はそれが上手く出来ない。ただの暗記の学問だとまで考えられています。この定説に僕は「疑い」をかけたいわけです。「歴史は繰り返される」みたいなことがよく言われます。ここに僕は歴史が学問として大学で研究され、はたまた義務教育で教えられるまでに至っている理由の根底があるのではないかと思います。繰り返される、とは多かれ少なかれ抽象化されているということです。先ほど述べたポリビオスの政体循環の考えであったり、イスラームとクリスチャンはいつまでも対立を繰り返したり、、、とこれくらいしか例が浮かばないのですが。
自分は高校生の時に世界史を頑張って勉強していきました。最初は、ただの暗記科目だろうな〜と思って授業を聞いていたのですが、先生の授業を通じてだんだんその面白さ、つまり抽象化、ストーリー性なのどに惹かれていきました。その過程で、大阪大学というのは世界史研究でも日本で卓越した存在であるということも高校の先生と話していくうちに実感していきました。大阪大学は歴史が暗記科目という考えに真っ向反対しています。歴史とは「現在、未来」の情勢に対して過去の流れ、背景を軸にして解釈や思考をしていく学問だ、みたいな解釈をしています。例えば今のグローバル化された世界。世界の一体化というのは15世紀末の大航海時代に端を発して有能な白人たちが世界を支配していく、それが今のトランプ政権、プーチン政権まで続いているみたいに解釈されています。しかし大阪大学では、大航海時代以前には船でのヨーロッパ-インド、地中海-紅海(今で言うスエズ運河)以外の交易網は既に完成されていた上に、白人が優位に立てたのは人種に由来するものでなくただ土地などの条件の偶然性に由来するものであると推察しています。これをヨーロッパの奇跡とまで呼んでいます。サイードオリエンタリズムとも似ていますね。
このように歴史とは暗記科目でなくてその会社を通じて一般化していく、その上で現在、未来の社会問題を考察していく学問ではないのかなと最近考え始めています。このことをもっと追求していくためにゼミでは大学イチの知的好奇心を持って頑張りたいと思います。自分は大学で正にこういうことをやりたい!という意思に最高に適合してるゼミが存在していたので楽しんでやっていきます。